中世ヨーロッパの始まり
中世ヨーロッパとは、古代ローマ帝国の崩壊後から近世の始まりまで、約千年にわたる長い時代を指します。この時代、ヨーロッパは封建制度を基盤とし、王や貴族、教会勢力が複雑に絡み合う独自の社会構造を築いていきました。
その中で、現在のドイツを中心とする地域には「神聖ローマ帝国」という特異な国家が誕生します。名前に「ローマ」とありますが、中心地はイタリアではなく主にドイツ地域。しかも統一国家ではなく、諸侯と都市が緩やかに連携する、いわば「ゆるやか連合国家」でした。
補足:中世とは?
歴史用語としての「中世」は、476年の西ローマ帝国滅亡から、宗教改革や大航海時代の始まり(15〜16世紀)までを指す長期間を意味します。
オットー1世と神聖ローマ帝国の成立
神聖ローマ帝国の出発点となるのが、10世紀の東フランク王オットー1世の即位と皇帝戴冠です。オットーは国内の諸侯を抑え、異民族であるマジャール人をレヒフェルトの戦い(955年)で打ち破り、名声を高めました。
その後962年、オットーはローマ教皇から「ローマ皇帝」として戴冠されます。これは、古代ローマ帝国の継承者としての地位を与えられたことを意味し、後の「神聖ローマ帝国」の正統性の出発点とされます。

補足:なぜ「神聖」なのか?
「神聖」とは、皇帝が教皇の祝福を受けたことで、神の代理人としての正当性を持つとされたことを意味しています。宗教的正統性が国家の権威を支えていたのです。
神聖ローマ帝国の政治構造:皇帝と諸侯の力関係
皇帝は名目上、帝国の頂点に立つ存在でしたが、現実には各地の諸侯たちが極めて強い自治権を持っていました。とくに大領主や教会領主は、自ら軍隊を持ち、法律を定め、事実上の「小国家」のような支配を行っていたのです。
また、皇帝の選出には「選帝侯(せんていこう)」と呼ばれる特定の諸侯の投票が必要であり、皇帝は彼らとの妥協・交渉なしには実質的な権力をふるえませんでした。
補足:選帝侯とは?
神聖ローマ帝国には7人の選帝侯(後に数が増減)がおり、彼らによって次の皇帝が選ばれる仕組みでした。彼らの支持を得るために、皇帝候補は多くの特権や恩恵を約束せねばなりませんでした。
都市の発展と自由都市の登場
12世紀以降、ドイツ各地では経済発展と共に都市が急成長します。とくに交易や手工業の中心として発展した都市は、次第に領主の支配から自立し、「自由都市」と呼ばれる特別な地位を得るようになります。
自由都市は皇帝直属の地位を与えられ、周囲の諸侯の支配を受けずに独自の法と制度を持つことができました。ハンブルク、フランクフルト、リューベックなどがその代表です。
補足:ハンザ同盟とは?
北ドイツの自由都市を中心に構成された「ハンザ同盟」は、商業利益を守るための都市同盟であり、14世紀にはバルト海・北海全域に影響を与える巨大ネットワークとなりました。
中世帝国の特色とそのゆらぎ
神聖ローマ帝国は、中央集権国家とはまったく異なり、皇帝・諸侯・教会・都市の多元的な権力構造によって成り立っていました。そのため、帝国としての一体感は希薄で、皇帝によって統治の強さには大きなばらつきがありました。
それでも「帝国」という枠組みは長く機能し、対外的には一種の統一体としてヨーロッパに認識され続けました。
補足:帝国議会(ライヒスターク)
諸侯や都市、教会の代表が集まる帝国議会では、重要な法律や戦争、税制などについて協議されました。ただし、決定には時間がかかり、帝国の迅速な行動を妨げる一因にもなりました。
おわりに:次の時代へ
神聖ローマ帝国は、長く続く「ゆるやかな国家連合」として中世ドイツを形作りました。しかし、その分権体制は、やがて内部分裂や外部圧力により揺らぎ始めます。
1517年、マルティン・ルターによる宗教改革が始まると、帝国内の対立は決定的となり、「宗教と政治」が複雑に絡み合う新たな時代が幕を開けるのです。

神聖ローマ帝国って、まるで「ゆるくて長い同居生活」みたいな国だったんですね〜。次回はその暮らしに大きな変化をもたらす「宗教改革」について見ていきましょう!
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