【ドイツの偉人・有名人】第1回 マレーネ・ディートリヒ|美と反骨のディーヴァ、その人生とドイツゆかりの地を巡る

バウハウス風グラフィックスタイルで描かれたマレーネ・ディートリヒ ドイツの偉人・有名人
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時代を超えて語り継がれるドイツ出身の女優、マレーネ・ディートリヒ。彼女の魅力は、映画のスクリーンを超えて、戦争と平和、祖国と亡命、自立と献身といった数々のテーマを体現しています。ここではその人生の軌跡をたどりつつ、彼女ゆかりのドイツ国内の聖地巡礼スポットもご紹介します。


マレーネ・ディートリヒとは?

マレーネ・ディートリヒ(Marlene Dietrich)は、1901年12月27日、ドイツ帝国時代のベルリン・シューネベルク地区で誕生しました。本名はマリー・マグダレーネ・ディートリヒ(Marie Magdalene Dietrich)。「マレーネ」という名前は、2つの名前を合わせた愛称です。

父は警察官で元軍人、母は敬虔なプロテスタント信者。ディートリヒは音楽的才能に恵まれ、幼いころからヴァイオリンを学び、当初はプロの演奏家を目指していましたが、手を痛めたことがきっかけで断念。その後、舞台芸術に転じ、ベルリンの演劇学校(現在のベルリン芸術大学)で学び、舞台女優としての道を歩み始めます。

ドイツのベルリン芸術大学
ベルリン芸術大学
Björn Wilck – UdK Berlin, archiv, CC BY-SA 3.0 de,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid
=68604861による

1930年、ドイツ映画『嘆きの天使(Der blaue Engel)』に主演。この映画で彼女は一躍スターダムにのし上がり、その妖艶でクールな魅力は世界中を魅了しました。これを機にハリウッドへ進出し、名だたる映画監督や俳優たちと共演を重ね、名声を不動のものとします。

しかし、ナチス政権の台頭とともに、ドイツ政府は彼女に協力を求めますが、ディートリヒはこれを拒否。1939年にはアメリカに帰化し、反ナチスの立場を鮮明に打ち出しました。

晩年は公の場に姿を見せることが少なくなり、パリで静かな生活を送りました。1992年に亡くなった際、彼女の望みにより、遺体は故郷ベルリンに戻され、グリューネヴァルトのシュティフス教会墓地に埋葬されました。

白薔薇の画像
K_hodumiによるPixabayからの画像

反骨のアイコンとしての彼女

マレーネ・ディートリヒの人生は、単なる銀幕の女優を超えて、ひとりの信念ある人間としての強さを物語っています。

第二次世界大戦中、ナチス・ドイツは彼女に対して映画出演やプロパガンダ協力を依頼しましたが、彼女は毅然と拒否。逆に、連合国側に立ち、アメリカ軍の兵士たちのために各地で慰問活動を行い、英語とドイツ語で歌を披露しました。特に「リリー・マルレーン」などの楽曲は、兵士たちにとって大きな慰めとなったといいます。

この行動はドイツ国内で激しく非難され、一部からは「祖国を裏切った」とも言われました。しかし、彼女自身はそれを「ナチスと戦うことこそが、ドイツを救うこと」と信じて疑いませんでした。

戦後は、その政治的なスタンスや活動が評価され、アメリカやフランスから数々の勲章を授与されました。反骨精神を貫いたその生き方は、後の女性たちにとっても大きなインスピレーションとなり、ディートリヒはフェミニズムの先駆的存在とも言われています。

夕焼けと女性のシルエットの画像
Gulcin GulerによるPixabayからの画像

今も息づくマレーネの足跡【聖地巡礼】

マレーネ・ディートリヒの人生をたどるとき、彼女ゆかりの地を訪れることで、より深くその魅力を感じることができます。以下は、ドイツ国内に残る彼女の“聖地”です。

ベルリン・シューネベルクの生家跡地
現在は一般住宅となっていますが、建物の外壁にはマレーネ・ディートリヒがこの地で生まれ育ったことを記す記念プレートが設置されています。控えめな記念ですが、彼女のルーツを感じることができる場所です。

住所:Leberstraße 65, 10829 Berlin, Germany (備考現在は一般住宅となっていますが、外壁に記念プレートが設置されています)

ベルリン芸術大学(旧・演劇学校)
ディートリヒが演技を学んだ歴史ある芸術教育機関です。ここで彼女は表現力を磨き、舞台女優としての基礎を築きました。校舎の外観も当時の趣を残しており、学生時代の彼女に思いを馳せることができます。

住所:Einsteinufer 43–53, 10587 Berlin, Germany 公式サイト

シュティフス教会墓地(Grunewald)
ベルリン西部の緑豊かな地域にあるこの墓地には、彼女の墓が静かに佇んでいます。墓碑にはドイツの詩人アイヒェンドルフの言葉「Hier steh ich an den Marken meiner Tage(ここに私は私の人生のしるしの前に立つ)」と刻まれており、人生を誇りと共に終えた彼女の姿を象徴しています。

住所:Bornstedter Straße 11–12, 10711 Berlin, Germany備考:マレーネ・ディートリヒの墓碑には「Hier steh ich an den Marken meiner Tage」と刻まれています)


ディートリヒが遺した名言とその意味

マレーネ・ディートリヒは、その生き方と同様に、発言のひとつひとつにも深い思想が込められていました。以下に代表的な名言を紹介し、その意味を現代的な視点で解釈してみます。

I am, thank God, German by birth, but I am American by choice.
(私は生まれながらにしてドイツ人であることに感謝している。しかし私は、自らの意志でアメリカ人になった。)

この言葉には、彼女の複雑な祖国への感情と、戦争という時代の中で下した選択の重みが込められています。ナチスへの明確な拒絶と、それでも捨てきれないドイツ人としての誇り。アイデンティティを二重に持つことの葛藤と強さが伝わってきます。

I dress for the image. Not for myself, not for the public, not for fashion, not for men.
(私はイメージのために装う。自分のためでも、大衆のためでも、流行のためでも、男性のためでもない。)

マレーネ・ディートリヒ白黒写真(パブリックドメイン)
マレーネ・ディートリヒ(パブリックドメイン)

この言葉は、現代のフェミニズムに通じる自己決定権の表現として注目されています。彼女の中性的で洗練されたファッションは、従来の女性像にとらわれない自由な表現として、多くの人々に影響を与えました。


さいごに

マレーネ・ディートリヒという存在には、単なる女優の枠を超えた力があります。祖国を愛しながらもナチズムには断固としてNOを突きつけた勇気、芸術を武器にして戦争と闘った姿、そして何よりも自由であろうとする意志の強さ。

彼女の生き方は、現代の私たちにも問いかけてきます。「信念を貫くこと」とはどういうことか?「美しくあること」とは何のためなのか?

ドイツ文化には、華やかさと静けさ、自由と責任、誇りと懺悔といった、相反する感情が共存しています。ディートリヒの人生は、その縮図のようにも思えるのです。

映画フィルムの画像
MasterTuxによるPixabayからの画像
まいん
まいん

信念を貫いた人って、時代が変わっても輝きが消えないんですね。

🌹美のために奥歯を抜いた?──マレーネ・ディートリヒのストイックな逸話

マレーネ・ディートリヒにまつわる逸話のひとつに「頬をほっそり見せるために奥歯を抜いた」という話があります。真偽は定かではありませんが、彼女が自分のイメージづくりを徹底していたことを象徴するエピソードとして語り継がれています。

ディートリヒはライティングの角度やメイクの濃淡まで細かく指示を出し、「どう映るか」を熟知した女優でした。時に監督よりも映像に精通していたとも言われ、スクリーンの中の“完璧な自分”を演出することに妥協を許さなかったのです。

奥歯抜歯の話が本当かどうかはさておき、そのくらいしていても不思議ではない――そう思わせるだけの、強い意志とプロ意識が彼女にはあったのでしょう。

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